一般社団法人 北海道まちづくり協議会

特集記事 THE座談会

2020年6月11日(木)

THE 座談会 in 東川町(4)〜写真という文化によるまちおこし〜


● 写真という文化によるまちおこし〜写真の町 —————————————————

「写真の町宣言」から10年後に写真甲子園が始まった。〈右〉写真甲子園に集ったみなさん

(森) 菊地さんなぜ土日も動けるのですか。

(菊地) なぜでしょうね。そこに人が来るからというか、それを別に断る理由というのは、土曜日だからできませんと言わないというだけの話であって。
僕らは積極的なブラックだと言っているのですけれども、自主的ブラック(職務ではなく地元人としての活動)というのですか。
ブラックと言ったら今は働き方改革の中で色々と問題がありますけれども、自主的ブラックと言っておけば、自主的なのだから放っておいてくれという感じでしょうか。(笑)

(轡田) 来てくださる方はみんな楽しそうに過ごされています。みんな豊かな顔になって。

(菊地) あとは、仕事だと思っているかどうか、あまり考えていないかもしれないですね。

(森) 今は役場の職員さんは何人いらっしゃるのですか。

(菊地) 全部合わせると130人~140人は、いわゆる正規職員。ただ、我々の職種のような一般事務職でいうと90人ちょっとぐらいですかね。

(森) その方々のいわゆる連携というのは自然で無理なく。

(菊地) ここ10年、15年で自然にそのような風土が職員の中に培われたのではないかなと思います。

(森) 先程の世代交代もしているということも含めて、東川町が、「写真の町宣言」をしたのは何年前?30年か35年ぐらい前でしたか。

(菊地) 1985年ですから、もう35年前ですね。

(森) そういうことから根付いているというのはあるのですか。

(菊地) それは大きいと思いますね。

(森) 国際的な感覚というのも。

(菊地) 国際的な感覚もありますけれども、やはり町外の企業の方々だとか写真業界の方々だとかという、そういう色々な人脈の方、色々な方々のお世話になって繋がってきているというところは非常に大きいのではないかと思います。

(森) 例えば、写真の町ということで当時はキャノンとか、いわゆる日本の大企業が、富士フイルムもそうでしたけれども協力をしてくださって、役場の方もそういった大企業と対等に接するということに臆さなくなってきたということがあるのかもしれないですね。

(菊地) そうですね。普通の役所といわれる仕事の範囲だけで考えたら、そういう方々と接する機会というのは他の役所ではないと思うのです、部署にもよるとは思うのですけれども。
我々みたいな小さな町で大きな企業さんと長年ずっと付き合ってくると、人事異動もしますし、イベントのときは職員総出で事業に当たりますから、多くの職員はそういう感覚を持つ、そういう機会を持って接する機会が多いですからそれは非常に影響は大きいと思います。

(森) メディアとの付き合いもそういう面では大きいですか。

(菊地) そうですね。メディアもそうですね。

(森) あの当時の町長さんは。

(菊地) あの当時は、中川町長です。1985年当時ですね。

(森) その町長さんの号令の下、文化戦略を始められた感じですか。

(菊地) 文化戦略というものなのかどうなのか。私もそうは思わないのですけれども、「写真という文化によるまちおこし」ベタな言葉でいうとそういう意味だと思うのです。
その当時の町長だけがそれを判断したのではなくて、写真の町という企画については、それこそ札幌の民間の企画会社の持ち込みの企画でしたから、その当時一村一品運動だとか、そういうものが叫ばれていたときに、その企画の内容を見て、“写真映りのいい町”というキーワードで文化を中心にまちおこしをしたらどうですかというところに商工関係者とか農業関係者、観光関係者、そのトップの方々も賛同したという、町長も含めてそれでいこうということになったということだと聞いています。我々、今35年が経って職員をやっている立場からすると、当時そういう選択をした判断は素晴らしいと思うのです。

(森) その選択をされた方々の多くは勇退をされているわけですね。

(菊地) そうですね、ほとんどの方は勇退していますね、年齢的にいうと。

(森) 直接学ばれたもの、接した方々というのは、菊地さんは多くいらっしゃるのですか。

(菊地) その当時の方々からですか。そうですね、直接的に役場に入ってから現役の方もいましたから、感覚は学ばせていただいた部分もあります。

(森) 菊地さんは、一番最初は何課から始まったのですか。

(菊地) 私は教育委員会学校教育課というところから。私は松岡町長の前の町長のときに採用されたのですけれども、前の町長の第1回目の採用だったのです。

(森) 教育委員会もイベントの時というのは借り出されるのですか。

(菊地) その当時の方々からですか。そうですね、直接的に役場に入ってから現役の方もいましたから、感覚は学ばせていただいた部分もあります。

(森) 直接学ばれたもの、接した方々というのは、菊地さんは多くいらっしゃるのですか。

(菊地) 写真の町事業のときは、当時から、今ほどではないですけれども、イベント期間になると各課から応援を出すということはその当時からありました。

(森) 「写真の町宣言」をしたことで「写真甲子園」が引っ張れたということもあるようですね。

(菊地) それは当然そうですね。「写真の町宣言」をして条例までつくった10年後ですから、写真甲子園を始めたのは。

(森) あれも今や映画にもなりましたものね。

(菊地) 映画になりましたね。

(佐々木) 漫画にもなって。

(森) 映画を見ましたか。

(佐々木) 見ていないです。知り合いが、たぶんエキストラで出演していたと思うのですけれども。

(轡田) 私も出演しました。

(菊地) 台詞付きの女優ですから。

(森) 私、見たのだけれども、お会いする前だったから。

(轡田) あのときは、ちょっと役づくりで太っていたので。

(菊地) 役づくりでね。

(轡田) そうです。

佐々木さんの研究成果プレゼン資料より

(佐々木) この35年前に文化によるまちづくりを選択したというのが今の東川のある種の人口増に結構効いている部分があると思います。というのはアンケートでも出てきているので、そこが他の町との30年間のスタートダッシュの違いだと思うのです。

(菊地) こういうことを一言で簡単に説明しきれないところが私たちもつらいのですけれども。

(森) 山を越え、山あり谷あり、谷あり、ぶち壊そうという動きありという。

(菊地) 本当にいろんなことをやって続けてきたというところに、今となったらそれが、写真の町というのが精神的な支柱になっているのです。

(森) そうでしょうね。私もある時期「写真の町」造反のお話なども聞こえてきていました。私が記憶に残っているのは、東川町の人たちの中で「俺たちがこれやめたとして他に何あるの」みたいな議論をされたという、議員さん同士にも反対組、賛成組がいて、反対組が造反を起こしたときに、「やめるならやめてもいい。だけれどもやめて俺たちにいったい何が残るの」となったときに、誰も答えを明確に出せなかったので、じゃあ探りながら続けてみようとなったとか。

(菊地) 最初の10年、15年はそんな感じだったと思います。職員の中でも、僕も含めてかもしれないですけれども「写真の町?なぜ?」と思っている職員がいましたから。写真の町で何のためになるのだろう、何のためにやっているのだろうというのが当然職員とか議員の中にもそのように思っている人がいるということは、住民だって理解していない人がそれ以上にいたということ。

(森) そういうのを乗り越えてこその自信というところもあるのでしょうね。

(菊地) 結局今となっては、全て結果なのです。

(森) 今だから美的ストーリーも書ける。

(菊地) 気づくと35年の蓄積があるから他の町にはまねできないというふうに、今だから言えるとか。そういうことなのだと思うのです。


次回5回目は“東川町というまちのブランドについて〜立地の良さと文化づくりの相乗効果”です。


《THE座談会in東川町の掲載記事は下記からご覧いただけます》
(1)ゲスト紹介
(2)なぜ、東川町へ向かったのか
(3)東川町の暮らしづくり
(4)写真という文化によるまちおこし
(5)東川町というまちのブランドについて
(6)子育てサポートもブランド力
(7)東川町民のサポートマインド力
(8)まちのジャストサイズ〜現状維持が目標
(最終回)東川スタイルはコミュニティから生まれる